近江路走行記

休日はカメラを持って散歩、時々サイクリングです^^。

独り言

鬱病患者は苦しみと悲しみの共感を求めます。

長く辛い時間が続くのですから誰かに助けを求める姿勢は大事な事です。

ですが、理解は中々難しい。

情報と感覚ではその人の苦しみは分かりません。

分かってほしい、分かってあげたい、そのお互いのジレンマが更なる苦しみを生みます。

経験が無いからです。

薬を服用し、調子が上がらないと治療を考えている先生の手腕に疑問を持ちます。

所詮は健常者、どれだけの患者を診ても鬱病になった事の無い人の言葉は

時に無力となり、疑問の原因となってしまいます。

理解では無く、理解してあげたいと思う気持ちの大切さが見えなくなる。

それが私たちの普通です。

知恵と優しさは押し売りになる時があります。

求めている事が違っても理解出来ないのだからそれを伝える、行動にさせる

でも相手は動かない、動けない。

それは伝える者の気持ちに苛立ちを生ませ、最後は諦めとなり消えていきます。

それも当たり前ですね。

求められているから考えて伝えた言葉や気持ちを相手が受け入れず、行動せず

ただ苦しい、何とかしてくれと訴えても、呆れてしまえばもう響くことはありません。

苦しみの道は長く険しい

同じ時間を治療に使うのは相当根気がいるものです。

ましてや友人や家族はプロではないから、それぞれの生活や生き方がありますもんね

「私にだけ全力投球」

それは無理な話です。

でもそれを求めるのが鬱病患者です。

鬱病の苦しみを理解出来ない、それを言うと必ず鬱病患者を抱える家族の苦しみも

あなたには分からないとの言葉と気持ちが出ます。

歩み寄るのは、本当に理解をしてあげたいと思うのは、頭を変にしないと無理かもです

その苛立ちを含めて、治療の道が出来ています。

薬を飲ませる、寝させる、入院させる。

それだけでは治る事も治させる気持ちを生ます事も難しいでしょうね。

正解は無く、ただ根気を持って続ける。

今の私にはそれが一番だと感じています。

鬱病の苦しみを体験したいなら

私と同じように手首を切りなさい。

刃物を当て真似をするだけでなく、実際に切って下さい。

流れた血、感じる痛みに幸せを覚え、これが正解なんだと頭が理解しようとしたら

少しは分かるかもしれませんね。

鬱病は自己満足の世界です。

自分だけで疑問や不安を感じ答えを出します。

それを間違いだと教える、気づかすには

長い時間が必要です。